教養の身につかない日本

日本ではいくら学歴があっても教養は身につかないらしい。

いま、ちまたで騒がれているM国会議員には教養というものが身についてないように思われる。

「戦争。」こんな大事な言葉軽々しく用いるものではない。

人と人が殺しあうことである。とても危うい言葉である。

最高学府を卒業してエリート官僚と呼ばれ、国会議員になってもこのことが

腑に落ちていない人間がいると思うとがっかりする。

そういう教養が身についてないということは他の部分においても身についてないということは推して知るべしだろう。

なんとも情けない話だ。

M議員は表現の自由だとのたもうているらしい。

しかし、表現の自由というものをきちんと考えてほしい。

誰がどんなことを言っても自由だというものではない。

人それぞれ立場に応じて、発言する範囲は定まっているのである。

その範囲を見極める力が教養の力の一つだと思う。

最近、失言がいたるところで見受けられるがそれは教養なる力が弱くなっているせいだと思う。見定められないのだろう。

ここで考えてみたい。教養とはなんだろう。辞書をひけばいろいろと書いてあるが、

漢字をそのまま読み解けば、教えが養う力ということになろうか。

教えが養う智慧とも言える気がする。

教えを養う力だとちょっと考えたが、それだと養教になってしまうのではないだろうか。そのあたりは専門家におまかせしよう。

しかし、教養は何かの教えが関係していると思われる。

それは大まかに言うと、倫理観、道徳観といったものだろう。

それでは日本の倫理観はどこにあるのだろう。

日本には公には宗教教育はなされていないので、宗教にともなう倫理観は教えられない。新渡戸稲造もそのことに端を発して「武士道」なるものを書いたらしい。

新渡戸稲造によると、昔、日本の倫理観はもともと口頭伝承で伝えられていたらしい。

それが孔孟思想が日本に入ってきて、論語などが読まれるようになりそれが口頭伝承で伝えられてきたものに近くとても親和性があり広まっていったという。

元来は、口頭伝承なのである。

といっても1、何々、2.何々とあるわけではないのである。

よくよく考えてみると「父の背中を見て育った。」という言葉をふと思い出した。

父の背中である。背中が何かを語っているのである。ちょっと高倉健風でかっこいい。

何も言わずに倫理観の基づいた行動を親というものが担っていたのだと思う。

特に父親である必要はないと思う。もちろん母親からだって学ぶことが多い。

そこで最近の、教養のなさの根源である、倫理観の喪失は背中で語らなくなってしまったせいだと思う。語らなくではなく語れなくだろうか。どっちかはわからない。

親が規範となる行動をとる責任をとらなくなってしまってきたのである。

それを見て育つ子供も大人になれば同じような行動規範によって行動してしまう。

つまり、倫理観はその家庭環境がつむいできた結果だと考えられる。

子を見れば親がわかるという諺もあるくらいだからきっとそうなのだろう。

最近は、背中でも語れず、自分のうちすら帰れない父親が増えているらしい。

母親ではなく父親なのである。つまり、父親の家庭での存在感が全くないのである。

父親はATMとまで言われてしまうくらいだ。

しかし、存在感は人が作るものではない。自分で作るものである。その存在感がないということは自分で作ってこなかったのである。とても残念な話である。

背中で語るどころの話ではなくなっている。

生き様すら見てもらえなくなってしまっている。

そろそろ自分の存在を大切な場所に作ってもいいのではないだろうか。

たしかに仕事も大切である。それと同じく家庭も大切である。

その意識を頭の片隅に置いておくだけでも、自分の行動は変わるのではないだろうか。

そのほうがみんなにとって幸せになれるような気がする。

大切な人は多ければ多いほど幸せなものだ。

そのことは人間は本能的にわかるはずだ。

しかし、ここで大切なのは親子が友達ごっこにならないようにすることである。

親子は友達ではないのである。そこだけは注意しなければならない。

親は規範を示す存在でもなければならないのだ。

といっても自分のことを考えると規範がどこにあるかはわからない。

私も語られない族の一員だからである。

今まで行ってきた内容を振り返るとどうやら昔にはあったみたいなので、

本などから得るしかないのだろう。温故知新である。

故きを温ねて新しきを知る。

難しく考えることもないと思う。自分が正しいと思うことを行えばいいのである。

親だって人の子である以上間違いは犯すものである。

でも、「正しい」と思うことを持つことは大切である。

そして、それをまた、背中で語れる日を作りたいと思う。

高倉健のように。やっぱりかっこいい。といっても自分には無理か。

自分は口頭伝承でいこう。

口八丁手八丁で生きている人間の性である。

 

臨床医としての資質

今、医学部受験が盛んになっているらしい。

医師という仕事が安定した仕事だから親が子を医学部受験に誘導しているのであろうか。子供も親の期待を受けそのまま頑張り続けるのだろう。

それが成功だと信じているのだと思う。

何をもって成功なのかはよくわからないのだが。

しかし、それで迷惑するのは患者本人と患者の家族である。

風邪やちょっとした病気で病院にかかるくらいなら毒にあまり当たらずに済む。

しかし、重い病気を患ったときには、医師といやでも深く関わりあわなければならない。死にいく患者とその家族との向き合いを真摯に向き合うことを考えている医師であればよいが、そうでない医師にあたったら最悪である。

患者やその家族は「病気という人質」をとられて言うことを聞かなければならない。

診察の際に忙しいためか、イライラして心無い言葉をかけられることもある。

病気に関して事実であることをそのままいわれることで傷つくことだってある。

そういう患者や家族はいるのである。

死に対して無頓着なのか慣れてしまったのか理由はわからないがそういう医師が少なからずいるということは現実である。

そういう医師に当たることですでに毒に当てられる。

第二の病気のはじまりである。

患者が「人」であることを忘れてしまっているのか、意識的に無視しているのかはわからないが周りから見ているとそのようにしか見えないのである。

それは回診の状況を見てもわかるだろう。病人相手に何か勉強道具かのように見て回る研修医もいるが何か間違っていることに気がつかないのであろうか。

後学のための回診だと思っても、姿勢や態度は病人をみるそれではない。

それを優秀な人材とみなしている周りにも責任があるのかもしれない。

単に試験で点数がとれるということだけが優秀であることの証ではないことがこの人たちを見ていればわかるだろう。

確かに外科医の話などを読んでみたりすると患者を「人」としてみていたら切れないと書いてあることがある。それはもっともだと思う。

もしそうであれば、外科医は臨床にたつべきではないと思う。

外科医は手術のみに専念すればいいと思う。あとの診察等は他のふさわしい臨床医に任せるほうがいいと思うのである。

そこで臨床医に必要な資質がでてくると思う。

それは気持ちだと思う。患者やその家族の気持ちを尊重することである。

たしかに病気を治すことは大事である。

しかし、今の医学では命の区切り方が重要な問題になってきていると思う。

命の区切り方。それはその人自身やその家族が決めるべきことである。

それには患者やその家族の気持ちを十分知る必要がある。

どこまで治療するのかをきちんと理解しておくことが重要になるのではないだろうか。

治療にのめりこむことが医師の仕事ではないと思う。

治すということに夢中になりすぎて、「人」という存在を忘れている気がする。

また頭の中では理解していても、行動を伴わないところを見ると

腑に落ちてはいないのだと思う。単に理解しているということだけである。

それだけでは足りないのだと思う。きちんと腑に落とすことが重要なのだと思う。

患者はただ治りたいだけではないのである。

QOLなど言葉はたくさんあるけれども行動には伴っていないことが残念である。

治療の前に患者の気持ちを優先することも必要なのではないだろうか。

少なくともそういう意識をもって患者に臨むことが必要なのだと思う。

何かの理由をつけてそういうことができない医師は患者に臨まないほうが

お互いのためにいいと思う。医師失格である。

死が迫っている患者を扱う医師であればあるほどきちんと考えてもらいたいものだ。

あんまり期待はしていないけど。

 

「NHK」という国家の押し売り

NHKの受信料がいろいろなところで話題を巻き起こしている。

NHKはイヌにも視聴権があるらしい。。。とても親切な放送局だ。

イヌ語でも放送しているのだろう。私は見たことはないのでたぶん

深夜帯でやっているのだろう。犬はこぞって見るのであろう。

日本放送協会。略してNHKだ。

国で運営されている放送局である。受信料は国民が負担する義務がある。

いわば税金のようなものだ。受信料の支払いは義務なのである。

しかし、私は見ない。NHKに見たい番組もないのである。

買わない商品に対価も何もないように思われる。

表現の自由の確保”のための対価であるという理屈もあるだろう。

しかし、NHKで自由に表現されているものがあるだろうか。

国会中継を垂れ流ししてるだけの番組に何の表現があるのかわからない。

そんなものネットで中継を配信すればいいだけのことである。

そうすると年寄りが見れないと言い出す。最近はらくらくスマホ

あるんだからそれにアプリをいれてでも見ればいいと思う。

電波は公共財である。特にNHKはである。老人のためだけにあるのではない。

しかし、国民広く知らしめるのにテレビである必要があるのだろうか。

私は東日本大震災の被災者の一人である。被災したとき役に立ったものの一つ

といえばラジオである。ラジオで原子力発電所の爆発の第一報を聞いた。

次の日、その詳細を新聞で知った。

当時停電だったのでテレビは使用できなかったのである。

そういう経験からしてもテレビはそれほど役には立たなかった。

情報の伝達という意味ではラジオで十分であった。

今のNHKを観察という意味で見るとほぼほぼ民放とかわりがない。

視聴率を目指しているのだろうか。国民に媚びる番組を作るつもりであろうか。

老人が「チコちゃんに怒られる、チコちゃんに怒られる」と言っているのに

腹が立つ。流行にでも乗ったつもりなのだろうか。

いまだに老人は流行に乗る恥ずかしさも知らないのだからあきれたものである。

そんな番組も民放でもいくらでも作れるものである。実際似たような番組も

今もある。NHKが民放化してどうするのであろうか。

受信料を支払っていただいている国民の皆様に見てもらえるように媚びる番組を

作るのだろうか。NHKでバラエティーを放送する意味を見出せないのである。

それは単に国家が押し付けた番組の押し売りにすぎないと思う。

もはやNHKの役割は終えたのではないのだろうか。

情報伝達の速度はインターネットにはかなわない。

情報の保存性の観点からは新聞には勝てない。テレビは新聞のようには見返したりできないからだ。

こう考えていくと、NHKというテレビ番組の押し売りを廃止して

NHKの放送の代わりになる新聞を作ってみたらいいのではないかと思う。

NHKの代わりに新聞社を作る方が時代にあったものができるのではないかと思う。

国民が作る新聞である。

また、それをまかなうのは新聞の販売による売り上げにするのである。

私心ではあるが性質上、補助金なども多少出してもよいのではないかとも思う。

それにより放送の受信料は払わなくて済むようになるのではないだろうか。

また、スポンサーは国民なので表現の自由などもどの新聞社、放送局よりも

守られると思う。

新聞のほうが様々なことに対して批評もしやすいのではないだろうか。

また、あそこにこう書いてあったとかここにこう書いてあるなど、指し示しやすくもなる。

それは新聞の特性の一つだと思う。

それはNHKというほぼほぼ民放になりつつ放送局よりも

国民に役に立つ公共財になるのではないだろうか。

 

グローバル化とは?

昨今、グローバル化と言われることが多い。

外国人労働者の受け入れ要件の緩和なども関係しているのだと思う。

グローバル化と言われ、大学などではTOEICや英検など民間団体の

成績を利用することを視野に入れているらしい。

会話や表現を採点することが難しいので外部に委託する形になるのだろう。

しかし、本当のグローバル化とは英文法ができ英文読解力をあげることが

グローバル化なのだろうか。

私の友人はアメリカで働いており、その友人に英語の勉強の仕方を教わろうと

思ったら「自分の英語は文法もでたらめだから駄目だよ。全然わからないよ。」

と言われてしまった。なんか本末転倒な気分になってしまった。

日本国内では必死に重箱の隅をつつくような文法を勉強して、読解力をつけて大学でさらに勉強をしたところでさらにグローバル化と言われ英語力をつける方向に傾いていると思う。

しかし、変だ。アメリカで働いている人間が英語はまともに使えなくても

仕事はできるといっている。

本当にグローバル化に必要なものは英語力なのだろうか。

一度ここで考えてみる必要があるのではないか。

英語は語学である。言葉の学問である。

私たち日本人は、自然と日本語は身に着けている。

思考も日本語で行うほどだ。

しかし、まだまだ日本語を語学にまで高めるには学ぶ必要がある。

これが国語である。そこで語彙力などを身に着けてはじめて読書や

作文ができるようになる。

その語彙力が仮になかったとしよう。

たとえば「りんご」という語彙を知らなかったと仮定する。

そこで「apple」という英単語が学んだとする。「りんご」という意味を

持つらしいと知る。しかし当の本人は「りんご」のことはわからない。

そうするといくら「apple=りんご」と唱えたところで意味のわからない呪文を唱えているのと同じになってしまう。

それが形容詞、形容動詞といった抽象的な言葉が増えてきたらどうだろう。

いくら日本語に訳したところで意味がまったくわからないだろう。

そう考えるとやはり日本語力に裏打ちされた英語力というものが必要なのではないだろうか。

さらに、それだけではないと思う。会話力、コミュニケーション能力といった力もグローバル化には必要だろう。

身近の会話を思い出しても仕事の場でも、仕事の内容のみの会話だけで済んでいるだろうか。あいさつからはじまり、前に話した人であれば、前に関わった内容のことも話すこともあるだろう。それらには会話力が必要である。

そこに簡潔に話せるように文章をまとめるという能力も問われるだろう。

しかし、さらに必要とされるのは教養だと思う。教養というと哲学、宗教など思い浮かべてしまうが、そんなに小難しいものでなくていいと思う。

それは、私たちが日本人であることをきちんとわかってもらえる何かだと思う。日本とは今どういう国で、その成り立ちはこうだったみたいな歴史みたいなものだ。日本人のアイデンティティみたいなものだろうか。

そんなに難しく考えなくてもいいと思う。身近にある日本的なことを話す能力である。本当に求められている力はそちらではないのだろうか。

文法が多少崩れていようが相手は意図をくみ取ろうとしてくれるので意味は通じてしまう。ただ伝えたいという気持ちさえあればたいがい通じるものだ。

それは海外旅行などをすればなんとなく感じることができると思う。

つまりグローバル化と言われる中で必要な能力は、高い英語力ではなく

単に「伝えたいという強い気持ち」と「日本のアイデンティティを知ること」ではないだろうか。

大学受験のためにだけ英語を勉強しようとするのはもったいなさすぎると思う。若いときの大切な時間を費やすのだ。それなりに見返りはほしいものだ。

なんだか英語力だけ必死に伸ばそうとして違った方向に行っているような気がするのは自分だけだろうか。

せっかく、時間を費やして勉強したのだから、積極的に使えることにこしたことはないと思う。

「使える英語」に向かっていない英語教育は無駄というほかないだろう。

そして、さらにグローバル化は遠のいてしまうだろう。

 

 

何でAVは違法ではないのだろう?

何でAVは違法ではないのだろう?

いつも不思議に思う。。。

売春、買春には取り締まりがあり、風営法による取り締まりなどは

テレビの編成期に多い警察24時ではお馴染みである。

それなのにAVだけは、市民権を得たかのように売買がされている。

映倫に検閲?をしていただいているからいいのだろうか?

そういう問題じゃないような気がする。

金になるからだろう。そういう産業が生まれてしまったのだ。

AV産業。なんとも皮肉な産業だろう。

エロと金の相性がいいのはわかる。人類初めての商売であったらしい

ことも聞いたことがある。

ただ今考えるべきことは、そこに時代が進んだいま、倫理観や道徳心といった

抽象論的なものがないことに違和感を感じる。

単なる欲のかたまりで成り立っている。

さらにそこにインターネットなるものが加わるようになり

拡散しやすくもなり、さらに欲が拡がる。

欲を欲で満たすだけである。

あまり品のいい話ではないと思う。

しかし、いよいよDVDという円盤の中だけの話ではなくなってきたようだ。

拡散とデータが残り続けるという問題だ。

それにより傷つきはするが何も言えない女性が出てきている。

無理やりAVを撮影すればそれは単なる強姦である。

強姦魔を野放しにしていていいのだろうか。

これは男性では解決のできない問題であると思う。

男性にはそれなりの欲があり、解決の二の足を踏んでしまうものも多いと思う。

そこにはやはり、女性の力が必要不可欠である。

女性自身がAVという存在にきちんと向き合い発信していく姿勢が必要な時に来ているのではないかと思う。

AVは男性社会のセクハラの象徴の一つだと考える。

単に有名になりたいという女の子の欲とAV産業とがうまく融合してしまったのだと思う。

表現の自由という人もいると思うが、人を傷つける可能性をはらんだ表現の自由はとても危険なものに感じる。

AVを本気で芸術だと考える割合はどれくらいいるのだろう。

甚だ疑問だ。

なによりセクハラの象徴であるAVに対して女性が積極的に向き合って考えてほしいと思う。

未来の女性のためにも。