グローバル化とは?

昨今、グローバル化と言われることが多い。

外国人労働者の受け入れ要件の緩和なども関係しているのだと思う。

グローバル化と言われ、大学などではTOEICや英検など民間団体の

成績を利用することを視野に入れているらしい。

会話や表現を採点することが難しいので外部に委託する形になるのだろう。

しかし、本当のグローバル化とは英文法ができ英文読解力をあげることが

グローバル化なのだろうか。

私の友人はアメリカで働いており、その友人に英語の勉強の仕方を教わろうと

思ったら「自分の英語は文法もでたらめだから駄目だよ。全然わからないよ。」

と言われてしまった。なんか本末転倒な気分になってしまった。

日本国内では必死に重箱の隅をつつくような文法を勉強して、読解力をつけて大学でさらに勉強をしたところでさらにグローバル化と言われ英語力をつける方向に傾いていると思う。

しかし、変だ。アメリカで働いている人間が英語はまともに使えなくても

仕事はできるといっている。

本当にグローバル化に必要なものは英語力なのだろうか。

一度ここで考えてみる必要があるのではないか。

英語は語学である。言葉の学問である。

私たち日本人は、自然と日本語は身に着けている。

思考も日本語で行うほどだ。

しかし、まだまだ日本語を語学にまで高めるには学ぶ必要がある。

これが国語である。そこで語彙力などを身に着けてはじめて読書や

作文ができるようになる。

その語彙力が仮になかったとしよう。

たとえば「りんご」という語彙を知らなかったと仮定する。

そこで「apple」という英単語が学んだとする。「りんご」という意味を

持つらしいと知る。しかし当の本人は「りんご」のことはわからない。

そうするといくら「apple=りんご」と唱えたところで意味のわからない呪文を唱えているのと同じになってしまう。

それが形容詞、形容動詞といった抽象的な言葉が増えてきたらどうだろう。

いくら日本語に訳したところで意味がまったくわからないだろう。

そう考えるとやはり日本語力に裏打ちされた英語力というものが必要なのではないだろうか。

さらに、それだけではないと思う。会話力、コミュニケーション能力といった力もグローバル化には必要だろう。

身近の会話を思い出しても仕事の場でも、仕事の内容のみの会話だけで済んでいるだろうか。あいさつからはじまり、前に話した人であれば、前に関わった内容のことも話すこともあるだろう。それらには会話力が必要である。

そこに簡潔に話せるように文章をまとめるという能力も問われるだろう。

しかし、さらに必要とされるのは教養だと思う。教養というと哲学、宗教など思い浮かべてしまうが、そんなに小難しいものでなくていいと思う。

それは、私たちが日本人であることをきちんとわかってもらえる何かだと思う。日本とは今どういう国で、その成り立ちはこうだったみたいな歴史みたいなものだ。日本人のアイデンティティみたいなものだろうか。

そんなに難しく考えなくてもいいと思う。身近にある日本的なことを話す能力である。本当に求められている力はそちらではないのだろうか。

文法が多少崩れていようが相手は意図をくみ取ろうとしてくれるので意味は通じてしまう。ただ伝えたいという気持ちさえあればたいがい通じるものだ。

それは海外旅行などをすればなんとなく感じることができると思う。

つまりグローバル化と言われる中で必要な能力は、高い英語力ではなく

単に「伝えたいという強い気持ち」と「日本のアイデンティティを知ること」ではないだろうか。

大学受験のためにだけ英語を勉強しようとするのはもったいなさすぎると思う。若いときの大切な時間を費やすのだ。それなりに見返りはほしいものだ。

なんだか英語力だけ必死に伸ばそうとして違った方向に行っているような気がするのは自分だけだろうか。

せっかく、時間を費やして勉強したのだから、積極的に使えることにこしたことはないと思う。

「使える英語」に向かっていない英語教育は無駄というほかないだろう。

そして、さらにグローバル化は遠のいてしまうだろう。